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悪霊島 (1981年)

悪霊島 7


 東宝の石坂金田一シリーズとは違うパターンかな?という印象です。

 それまでの金田一物の登場人物達は、当たり前のように古い伝統や価値観の中に生き、そこに何の疑問も持たない人々でした。価値観が云々されることさえ無かったように思います。

 この作品に登場する、刑部大膳(佐分利信)や吉太郎(石橋蓮司)、そして巴御寮人(岩下志麻)も古いタイプの、伝統というものに何の疑いも持たない登場人物ですが、その一方で、刑部島出身で実業家の越智竜平(伊丹十三)は、伝統の破壊者たらんとして島に帰ってきます。また、刑部家の宮司である刑部守衛(中尾彬)は、刑部神社の御神体を俗悪な金の矢に交換する話を越智竜平に持ちかけられ、それに乗ります。守衛の動機は、刑部大膳の強烈な支配に対する復讐心ですが、彼を、大膳に象徴される古い伝統への反抗者と見ることも出来ます。

悪霊島 4 この物語の舞台となった1969年は、70年安保闘争真っ盛りであり、もちろん「あさま山荘事件」や「連合赤軍リンチ殺人事件」も起こっておらず、新左翼党派間の内ゲバもまだ陰惨な殺し合いに発展する前の頃です。70年代に入って、彼ら新左翼活動家達の至らなさが明らかになるにつれ、若者達は急速にシラケ、ミーイズムに向いますが、69年はまだ、「反抗こそ若者の美徳」と多くの人々が考えていた時代だと思われます。篠田正浩監督(横溝正史?)は、そんな時代を象徴する人物として、越智竜平や刑部守衛を作り出したのかな?という感じです。
 また、「性の解放」が叫ばれ、日本女性が堅持してきた貞操観念が徐々に崩壊しつつあった時代でもあり、それが、巴御寮人のもう一つの人格ふぶきの性的奔放さとして表現されていると見るのは考えすぎでしょうか?

 刑部大膳は「人間の尊厳、そういったものを簡単に放棄する奴は、それなりの報いがある。近頃の人間共は、放棄することに慣れて、守ることを忘れている。何が自由だ? 何が解放だ? 己の魂の在り方も守れず、戦後は解放されたとほざく。血が濁っても平気な奴はどんどん死ねばいい!!」と金田一に向かって吐き捨てるように言います。吉太郎は吉太郎で「現代人の失っているもの それは静かで激しい拒絶だ」という言葉を自分の部屋の机に彫っています。それまでの金田一映画からは想像も出来ない言葉です。

 そういう、今までの金田一物映画とは違う、古い価値観と新しい価値観の相克とでも言うようなものが、テーマとして込められているように思います。(もっとも、篠田正浩監督は、DVD付録の解説書の中で「日本の風土が作り上げた神というものは――実は人間が持つ一種のイマジネーションで作られていく……神様は人間が作るんだ、ということをやってみたかった。その思いを『悪霊島』にこめたんです。」と語っていますが。)

悪霊島 6


 本作で不満に思った点もやはり言っておきたいと思います。
 この作品の登場人物が総じて「冷たい」のが気になりました。「冷たい」と言うか、人間の血が通った人物が描かれていないように思います。
悪霊島 3 巴御寮人は常にすまし込んでいて、まるで感情を持たないようです。役柄上ある程度仕方無いとは思いますが、娘・片帆が殺されても平然としているのはいかがなものでしょう? 夫・刑部守衛の妾にずっと預けていた子という設定だから、情が湧かないのでしょうか? それでも、自分の腹を痛めた子という意識はあると思うのですが。竜平は竜平で、三津木五郎(古尾谷雅人)が自分の子供かも知れないと言うのに、五朗に何の思いも無いかのようです。当の五郎にしても、浅井はるのところへやってきたのは本当の母親を探すためだったはずなのに、その思いの深さが伝わってきません。
 主人公の金田一耕助からして、ユーモラスな表情もたまには見せますが、どこか淡々としていて落ち着き過ぎています。石坂浩二の金田一耕助が秀逸だったため余計そう思うのかも知れませんが、金田一耕助に何のキャラクター付けもされておらず、袴姿の普通の人といった感じです。
 全ての登場人物が、ただ話を進めるためだけに登場する人形のようでした。

 また、話が分かりにくい部分、最後まで観てもはっきりしない部分が幾つかありました。重箱の隅をつつくようですが、最後まで残った疑問を挙げてみますと、
●越智竜平はなぜ、消息不明になった青木の調査を金田一に依頼したのでしょう? 青木は越智の部下だったのでしょうか?
●殺された浅井はるの家で見つかった、刑部神社のおみくじの意味は?
悪霊島 2●刑部守衛殺害現場にあったはずの、平教経の弓が七人塚にあった意味は?
●真帆は「片帆が生前何かを怖がっていた」と金田一に言いますが、それは何なのでしょう? 片帆は、母・巴御寮人の中の別人格を知っていて、それを怖がっていたのでしょうか? それにしては、巴御寮人母娘が初めて登場する記念撮影のシーンでは、片帆が母を怖がっているようには見えません。
金田一耕助が「ふぶき」の部屋に入った時、前からそこにいた誠が金田一に発見され、逃げ出しますが、誠はそこで何をしていたのでしょう?
●三津木五郎の生まれた年の夏、モグリの産婆・浅井はるが取り上げた子は一人だけです。腰が繋がったシャム双生児でした。それこそが巴と竜平の間に生まれた子だったのですが、ならば、五朗は、巴と竜平の子ではなかったと云うことで良いのでしょうか? だとすれば、五朗が育ての母から聞いた話は何だったんでしょう?

 以上、最後まで説明が無かった点です。これらの他にも、よほど注意して見てないと、一度見ただけでは分かりにくい部分も幾つかあり、この辺りの篠田正浩監督の不親切さは、“芸術映画”を作っていた頃のクセが抜けきれなかったものでしょうか。


悪霊島 5 尚、この作品、冒頭とラストに、ビートルズの『Get Back』『Let It Be』が使用されていましたが、使用期限が過ぎ、DVDでは他のアーティストによるカバー曲に挿し替えられています(『Get Back』⇒ビリー・プレストン、『Let It Be』⇒レオ・セイヤー)。私が今回観たのもDVDででしたが、レオ・セイヤーの歌による『Let It Be』が実に良いです。本家ビートルズのバージョンも良いですが、こちらもかなり心に響くものがあります。機会がありましたら、一聴されることをお勧めします。


悪霊島 1


『悪霊島』(1981年)
監督:篠田正浩
脚本:清水邦夫
原作:横溝正史
製作:角川春樹
プロデューサー:橋本新一、飯泉征吉
撮影:宮川一夫
美術:朝倉摂
音楽:湯浅譲二
音楽プロデューサー:高桑忠男

出演:鹿賀丈史、室田日出男、古尾谷雅人伊丹十三岩下志麻、岸本加世子、宮下順子、二宮さよ子、中島ゆたか、大塚道子、原泉、武内亨、嵯峨善兵、多々良純、中尾彬、佐分利信、石橋蓮司、根岸季衣、浜村純、他

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ALWAYS 三丁目の夕日 (2005年)

ALWAYS三丁目の夕日_8


ALWAYS三丁目の夕日_2 何度観ても名作だなあ、と私は思うのですが、この作品、当時をその目で見てきた世代の方々にはあまり評価されてないようです。「本当の昭和30年代はこんなんじゃなかったよ。町がきれい過ぎるよ。」と言います。BSプレミアム『山田洋次監督が選んだ日本の名作100選~喜劇編~』として放送されましたが、解説の山本晋也監督までが、好きな映画ではあるがと断りつつも、あそこが違うここが違うと「本当の昭和30年代」との違いをかなり指摘されていました。


ALWAYS三丁目の夕日_4 それでも私は思います。この作品に描かれている昭和30年代は、ご年配の方々が懐かしむ昔ではなく、その時代を知らない世代が憧れを覚える、夢の世界としての昭和30年代です。
 そこには、寅さん映画のように、決して悪人がいない世間があり、家族崩壊とは無縁の暖かい家族と団欒があり、本音で物を言い合える、家族のようなご近所さん達がいます。鈴木オートのお父さんは、自動車産業の未来を信じ、自分の工場を大きくするんだという夢に胸を膨らませています。現在のように、混沌とした未来しか思い描けない現代人とは違って、決して豊かではないけれど、人々の表情は明るい時代。そういう夢のような心地よさに浸るための映画ではないのでしょうか? 
 上記のように、「違い」を指摘をすることに何の意味があるのでしょう? 私には、年寄りが、「ワシはこの時代を知っている自慢」をしているようにしか見えないのですが?
 若い観客は、雑然とした、ある意味「汚い」、リアルな昭和30年代を観たかったわけではなく、(それは幻想かもしれないけれど)人間の温かみが残っていたと信じている夢の世界としての昭和30年代を観たかったのだと思いますし、そこが人々に受け入れられ、3本も続くシリーズになったのだと思うのですが、違いますか?


ALWAYS三丁目の夕日_1 年寄り連中に不評なのを承知の上で書きますが、絵そのものも私には文句無しでした。
 本当にCGか?と疑ってしまうほど、道行く人々と、本物にしか見えないCG背景を、違和感なく同化させる技術力は素晴らしく、その完璧な技術力をもって作られた、地平線まで見えそうな広々とした風景は開放感に溢れ、心癒すものがありました。スタッフが何十冊もの本を買い込んで研究したというセットも、内部までしっかり作られています。茶川商店に置かれた駄菓子や玩具の他、劇中に登場するあらゆる小道具も、現存する昭和30年代の物を全国からかき集めてきたのだそうです。
 それらが上手く組み合わされ、私たちが思い描く分には十分に、昭和30年代らしい昭和30年代の風景が作られています。私が物心ついたのは昭和40年代に入ってからですが、その頃見ていた周りの景色とも十分重なりますし、幼い頃の温かい記憶が呼び覚まされ、胸にキュンとくるものがありました。


ALWAYS三丁目の夕日_7 そこで繰り広げられるエピソードの数々も、ある意味ではファンタジーとも言え、心温まるものでした。
 茶川、ヒロミ、淳之介、他人同士の三人が一つ屋根の下、家族のようにライスカレーを食べるシーン。宅間先生が夢の中で見た家族団欒のシーン。ヒロミが、茶川から贈られた見えない婚約指輪を嵌めて、涙を流すシーン。親に捨てられたと思い込んでいた六ちゃんだけど、実は、母親からの手紙が毎月送られてきていたことが分かるシーン等、ベタと言えばベタな話のオンパレードですが、作り手が斜に構えず、良い話をストレートにぶつけてきます。それでこそ、こちらも素直な感動を味わうことが出来るのでしょう。何か悪いことがありますか!?ってんだ、ジジイ共!?
 ラストで、鈴木オート一家が、新しく完成した東京タワーを夕日の中で眺めるシーンは、タワーと共に歩む、これからの明るい未来を象徴するようでもあり、本当に感動的なシーンでした。名作です。シジイが何と言おうとも、この作品は名作です。


ALWAYS三丁目の夕日_3 ALWAYS三丁目の夕日_6


ALWAYS三丁目の夕日_5 それにしても感慨深いのは、薬師丸ひろ子が、もうお母さん役をやる歳になってたんだなあということです。私が、『野性の証明』『セーラー服と機関銃』に夢中になっていたのはつい最近だったような気がしますが、あの頃から、この作品が公開された2005年までの間に、気が付けば30年近い月日が流れていたんですね。薬師丸ひろ子、この時41歳。私がオッサンになるはずですね。ちょっとばかり淋しさも感じる作品でした。

ALWAYS 三丁目の夕日』劇場予告編


ALWAYS 三丁目の夕日 (2005年)
監督、脚本、VFX:山崎貴
原作:西岸良平
脚本:古沢良太
撮影:柴崎幸三
照明:水野研一
美術:上條安里
VFXディレクター:渋谷紀世子
録音:鶴巻仁
編集:宮島 竜治
音楽:佐藤直紀
主題歌:D-51 「ALWAYS」

出演:吉岡秀隆堤真一小雪堀北真希、もたいまさこ、小日向文世、三浦友和薬師丸ひろ子

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愛染かつら・総集編(1938年)

NHK-BSプレミアムにて、『山田洋次監督が選ぶ日本の名作100本~家族編』として放映されたものを観たのですが、正直、あんまり面白くなかったです。
 製作が1938年とかなり古いこともあるのでしょうか、料理前の全く味付けされてない食材とでも言うか、メロドラマの原型を何の味付けもせずそのまんま見せられたような感じです。

 私の場合、古い映画を観る時は、画面の中の庶民の生活を見てノスタルジーに浸ることも楽しみの一つだったりするのですが、この映画ではそれもあまり感じられず、残念です(個人的な価値基準ですいません)。上原謙は病院長の御曹司で、家はもちろん裕福。庶民的な風景があまり写っていません。田中絹代も、夫に先立たれ、看護婦として、娘(おそらく姉も)を女の細腕一本で養っているにしては、二階にピアノが置いてあるような結構な家に住んでいるし、シーンごとに違った柄の着物を着ているしと、生活が全然苦しそうに見えません。夢物語を描いているんだから、あんまり生活感を出してはイカンと言うことなんでしょうか? バブル期によく見られた、トレンディードラマ的な嘘っぽさは戦前から既にあったようです。


愛染かつら 田中絹代 ただ、内容的には取るに足らないものではあったけれど、田中絹代は良かったです。1938年と言えば田中絹代も既に29歳ですが、セーラー服の女子高生役をやらせても違和感無いんじゃないかと思えるほど顔立ちが可愛らしく、少女のような可憐さを感じさせます。奇跡の三十路前です。
 上原謙は完璧なまでにイケメン。芝居はあんまり上手くない印象。セリフが棒読みっぽく聞こえて仕方ありませんでした。


 今では聞かれない死語が聞けることも、古い映画を観る時の楽しみです。この作品にも「ゴーストップ」なる言葉が出てきました。信号機のことです。戦前はカタカナ語で呼んでいたのに、現代では日本語の呼び名しか残っていないというのは面白い現象ですね。敵性言語として戦時中に抹殺されてしまったのでしょうか?
 終盤、田中絹代が舞台で歌った後、紙テープが飛び、観客が「アンコール、アンコール」とアンコールを求めるのも面白かったです。紙テープもアンコールもこの時代からあったんだなと。ステージを主催したのはコロムビア・レコードでした。私が子供の頃は、テレビアニメや特撮番組の主題歌レコードは、なぜかほとんどがコロムビアから発売されていました。黒い盤面にオレンジ色のラベルが懐かしいです。
 また、絹代の娘・敏子が齧っているのが森永チョコレートだったり、画面の隅にマルキン醤油の樽が写っていたりと、今でも馴染みのあるブランドを目にすると、その商品の歴史の古さに感慨深いものを感じます。写っているビールがどこのメーカーのものかも確認したかったのですが、よく分かりませんでした。

 という具合に、今回は、本筋とはあまり関係無い部分で無理やり楽しんでみました。ごめんなさいです。(楽しめなかったのは、私が元々、恋愛映画に興味が無いからかも知れず、好きな人が観れば面白く鑑賞できるかも知れません。)
 尚、タイトルが『愛染かつら・総集編』となっているのは、前・後編で製作されたものの、前編・後編ともフィルムが完全な形で存在せず、前・後編を再編集した総集編しか残ってないからだそうです。さすがに戦前の映画ですね。

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プリンセス トヨトミ(2011年)

プリンセス トヨトミ 1 会計検査院の調査で大阪にやってきた松平元(堤真一)と、その部下・旭ゲーンズブール(岡田将生)、鳥居忠子(綾瀬はるか)。
「財団法人OJO(大阪城趾整備機構)」に不審を抱き、本格的な調査を開始した松平は、お好み焼き屋「太閤」の主・真田(中井貴一)によって、大阪国議事堂に導き入れられます。そこで明かされる大阪国の秘密。大阪国総理大臣でもある真田は、大阪国が日本政府から正式に承認された国家であることを松平に告げ、日本政府から毎年補助金の形で受け取る5億円が正当なものであることを認めるよう求めます。
 真田からの要求を認めるか否か。やがて、大阪府庁舎前に大集結した全大阪国民の前で、松平がそれに裁断を下す時がやってくるのですが・・・


プリンセス トヨトミ 6


 かなりツッコミ所が多い、と言うか、ツッコミ所だらけの作品です。

 恐らく多くの観客が、それをキッカケに始まるスペクタクル巨篇を期待し、そして、それを目当てに劇場に足を運んだであろう「大阪全停止」はその最たるもの。いざ観てみると、あまりのありえなさに、頭の中を「?」マークが飛び交ったことでしょう。原作では、街から人気が無くなることは無かったようですが、映画では、やはり視覚的なインパクトが必用なのでしょうか、ツッコミ覚悟で原作を改変したものと思われます。

プリンセス トヨトミ 5 400年もの長きに渡って、大阪国なる国家内国家が秘密裏に存在している。国民は父親を亡くした大阪の男すべて。豊臣秀吉、秀頼、国松から連綿と続く豊臣家直系の王女がおり、日本政府から毎年支払われる5億円の補助金によって今も維持されている、という大元の設定からしてかなり無理があるので、あちこち穴が開いてしまうのは致し方ないこととは思います。ネットで他の方のレビューを読んでもボロクソに書かれてます。


 しかし、それでも私は、この穴だらけの作品を駄作だと斬り捨てるには忍びないものを感じます。

 自分に死が訪れることを確信した時、大阪の男は、息子を、大阪城の真下にある国会議事堂に連れていきます。息子は、大阪城へ続く長い廊下を父と並んで歩きながら、大阪国と女王の存在を初めて父から聞かされるのです。

 大阪府庁舎前を埋め尽くした大群衆を前に、松平は真田に問います。
「なぜ、信じる? あの地下の議事堂をたった一度訪れただけで、なぜこんなお伽噺のような世界を信じることが出来る?」

 真田が答えます。「それは父の言葉だからだ」

 父が死を覚悟した時の言葉だからだと真田は言うのです。
 でも、例えば、臨終を前にした父親から「先祖代々の土地を守れ」と言われたとして、それを誰もが固く守っていくでしょうか? 諸般の事情で売らなければならない場合だってあり、その時は父の言葉を裏切ります。
プリンセス トヨトミ 3 松平は大阪国の存在を「お伽噺」だと言い、大阪中の男がそれを信じていることが信じられません。しかし、映画では、信じられています。「お伽噺」なのは、むしろ、この部分です。人によってはツッコミ所と取るでしょう。でも私は「お伽噺」だと思いたい。そして、そんなお伽噺があってもいいと思います。大阪中の男が父の言葉を固く守って生きている。父と子、人と人との絆が希薄になっている現代だからこそ、それはとても心地よいお伽噺として聞けます。

 私の父も既に他界しています。松平の父親と似たり寄ったりで、決して尊敬できる父親ではありませんでした。しかし、オヤジはオヤジです。父と私を結ぶ、「情」という強く不思議な感情を断ち切ることは出来ません。「孝行したい時に親は無し」と言いますが、生きているうちに、もうちょっと父の喜ぶことをしてやれば良かった、ということを私も思います。
 最初は親子の絆を軽んじていた松平。それが真田との会見で、松平自身も、父に対するそういう情が呼び覚まされたようで、大阪国の存在を黙認することを選択します。甘いと言えば甘い。でも、それでいいじゃないですか。お伽噺です。
 ラスト、大阪国議事堂へ続く長い廊下を、松平が父とともに歩くシーンは、原作には無かったそうですが、とても良いシーンでした。
 最後のワンシーンも利いてます。大阪・夏の陣で、幼い国松をわざと逃がした徳川方武将、それを演じているのもまた堤真一。本作の脚本家や監督にしては洒落たことをするものです。

 作品の完成度という点では確かに穴だらけですが、そこに描かれているものは人情の機微に触れるものがあり、それは確実に伝わってきました。そんなに悪い作品ではありません。決して、たった一つの高評価ポイントが「無人の街を走る綾瀬はるかの、ブルンブルンと揺れる乳だけ」ということはないのです。


プリンセス トヨトミ(2011年)
監督:鈴木雅之
脚本:相沢友子
原作:万城目学
製作:亀山千広、堤田泰夫(関西テレビ)、島谷能成(東宝)
音楽:佐橋俊彦
主題歌:ケルティック・ウーマン「Princess Toyotomi〜永遠の絆」
撮影:佐光朗
編集:田口拓也(バスク)
制作:楽映舎
配給:東宝

出演:堤真一綾瀬はるか岡田将生沢木ルカ、森永悠希、江守徹、菊池桃子、笹野高史、和久井映見中井貴一

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野獣死すべし(1980年)

野獣死すべし 4 松田優作、1980年の主演作です。
 本作の主人公・伊達邦彦は、時折コミカルな味を加えつつ、野性味を基調にしていたそれまでの松田優作とはガラリと違い、戦場を渡り歩くうちに人格が破壊され、内面に狂気を孕んだ、一種の快楽殺人者であり、この作品も、80年代突入を機に、単なるアクション俳優から、何が何でも更なる上のステージに駆け上がろうとする優作が、己の演技力を誇示せんとした見本市的野心作です。

 この『野獣死すべし』出演にあたって、優作は10kg以上の減量をし、さらに上下4本の奥歯を抜いて頬をこけさせたというエピソードも伝わっており、また、優作の身長が、主人公・伊達邦彦の設定上の身長より5センチほど高かったため、「可能なら足を5センチ程切断したい」と真剣に語っていたと言うほど、本作は、優作が己の将来を賭け、目いっぱい入れ込んで作った作品でもあります。

 それだけやった甲斐もあって、この作品での優作の顔は今までと明らかに違います。顔色は青白いし、ヒョロヒョロと痩せこけていて、どこか、植物的です。野性味溢れる優作の面影はありません。それは、減量や抜歯によるものと言うより、もう、演技で顔を変えているのです。昔の優作の顔が好きな私としては、その、昔の優作の顔を本作のどこかでチラリとでも見たかったのですが、優作はとうとう最後まで見せてくれませんでした。これはこれで、凄いことではありますが。

 また、アウトロー世界の中をちょこまか動き回るというこれまでのパターンを捨て、伊達邦彦は、戦争という、より巨大な暴力の中を渡り歩いてきた男と設定され、言わばチンピラ的スケールの物語世界からの脱却も図られています。
 そういう作品でもありますから、松田優作主演のアクション映画の中では、ストーリー自体は一番面白かったです。

野獣死すべし 2

 しかし、正直に言うと、私はこの『野獣死すべし』での松田優作があまり好きではありません。上述したようなワケで、野性味ではなく狂気を前面に出してますし、「目が死んでる」と鹿賀丈史に言われるように、感情を持たない人間を目で演じる優作の、その目が気持ち悪くて仕方ないのです。私がそう思うことは、優作の勝ちを意味するのかも知れませんが。

 私がこの作品を初めて見た時はまだ10代で、その頃は、表向き大人しそうなインテリ青年が、裏では、善を超越した非情極まりないアウトローに豹変するという二面性に強く惹かれたものですが、今見ると、その裏の顔があまりにキ○ガイだし、ハッタリかますように朗読する萩原朔太郎の詩や、例の「君はいま美しい」という悪魔の洗礼の言葉も、(その頃無かった言葉ですが)いかにも「中二病」少年が好みそうな小道具です。当時の私もまた「中二病」が抜けきれてなかったのかも知れません。

 また、新境地を開こうと優作が入れ込んでる分、その狂気を孕んだ演技も、多少作り過ぎかな?と思うぐらい鼻につくシーンが多かったように思います。終盤、電車の中で室田日出男を殺し、更に鹿賀丈史を殺すまでの一連の演技に至っては、最早「臭い」という感じでした。よほど「演技派」という肩書きが欲しかったのでしょうか。今まで通りで良かったのに・・・。
 
野獣死すべし 1 この作品では、むしろ、鹿賀丈史のほうがインパクトがあって印象的でした。最初に登場した時の、うっかり手を出したら噛み付かれそうな、それこそ野獣のような凶暴性を感じさせる演技は凄かったです。ただ、それも登場した時だけで、後は、優作の中の、より巨大な悪を畏怖し、その前で恐れおののく飼い犬になってしまったのは残念です。最初のレストランでのキャラクターのまま、何か別の作品を観てみたかった。


 この作品を語る時、常に話題に上がるのがラストの難解さでしょうか。
 夢オチだという点では、皆さんの解釈は大体一致しているのですが、それなら、どこからが夢だったのか、よく分かりません。冒頭で青木義朗扮する警部を殺したところから既に夢だったのか、それとも、小林麻美の横に座ってコンサートを観ている途中で眠ってしまい、夢を見たのか?

野獣死すべし 3 答えは、最初に小林麻美が横にいた時と、最後で優作が居眠りしている時で、周りの観客の顔ぶれが違うことで分かりました。最初と最後のコンサートシーンは同じ時系列上にあるのではなく、最初が夢の中、最後が現実だと思われます。
 つまり、映画の冒頭からラストで目覚めるまでが全部夢だったのです。最初のコンサートのシーンは夢で、周りも夢の中だけに登場する観客です。だから、最後に登場する周りの観客とは顔ぶれが違うのです。

 目覚める前の段階で、二つの空席が写っています。小林麻美が途中で死んでしまったため混乱するのですが、これは、小林麻美も夢だけの人物で、本当はいなかったことを表していると思われます。そこへ優作が来て、二つの空席のうちの一つに座り、居眠りを始めたのでしょう。

 難解さの頂点は、優作がコンサートホールを出た時、何者かに撃たれて死ぬラストシーンです。
 撃ったのは誰かとか、なぜ死んだはずの室田日出男がいるんだ?とか、あれは優作の見た幻影だったのではないか?とか、挙句の果てには、いちいち意味を探るほどのラストシーンではないという意見も出てきたり・・・

 それでも敢えて私なりの解釈を書きますと、あれは、ふざけて死んだ真似をしているだけだと思います。ズッコケそうな解釈ですいません。

 その前のシーン、コンサート会場で目覚めた優作が何をしたでしょう? まず立ち上がって、「あれ? オレ、確かこういうポーズ取ってたよね?」という感じで、天に向かって指を突き上げた後、だだっ広いホールの中で「あっ」「あっ」と声を上げます。ふざけているのです。子供のようにその反響を楽しんでいるのです。この声を上げるシーンと、前の居眠りをしているシーンをひっくるめて、優作が、最早、居眠りするほどに音楽を解さない獣になってしまっていて、言葉さえ失い、獣のように声を発するだけになってしまったのだ、とする見方もありますが、考え過ぎでしょう。優作はそのまま外に歩いていき、まるで観終えたばかりの映画の真似をするように、撃たれて死ぬ真似をするのだと、私はこう解釈しました。向こうに立っている室田日出男は本当にそこに立っているのではなく、優作のイマジネーションです。小林麻美同様、実在しなかったと思われる人物ですし。

 作り手側も正解は用意していない可能性もありますが、こう考えるのが一番自然なんじゃないかと思うのですが・・・

『野獣死すべし』(1980年)
監督:村川透
脚本:丸山昇一
製作:角川春樹
製作総指揮:黒澤満、紫垣達郎
音楽:たかしまあきひこ
撮影:仙元誠三
編集:田中修
配給:東映

出演:松田優作小林麻美鹿賀丈史、岡本麗、根岸季衣、風間杜夫、岩城滉一、佐藤慶、室田日出男

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新幹線大爆破(1975年)

新幹線大爆破 3 うちにインターネットが開通して数年が経ちますが、ネットを見るようになってビックリしたのは、この『新幹線大爆破』が、自分で思っていたより遥かに多くの人々に支持されているということです。某巨大掲示板を私が見始めた時、既にこの作品についてのスレッドはあり、それ以後も絶えることなく立ち続け、恐らく、私と同年代かそれ以上の年代のオッサン住民達が中心でしょうが、結構な盛り上がりを見せています(もう話すことも無いのか、最近は少々過疎気味ですが)。

 しかし、この作品も、公開時は散々な客入りだったようで、製作費がやっと回収出来る程の興収しか無かったそうです。人気が出始めたのは、テレビ放映されたりレンタルビデオが出始めてからで、徐々に知名度と評価を高めていったのですが、その評価は海外の方がより高いと云うことにも驚かされました。私が初めて観たのも、確か高校(もしかしたら中学生だったかも)の頃、テレビ放映された時で、かなり面白いと思って観た記憶はあります。

新幹線大爆破 1 そういうこともあって、前々から、「これはもう一回観ておかなければならない作品だ!」と思っていたことに加え、前回のエントリーが高倉健主演の『遙かなる山の呼び声』ということで“健さん繋がり”の作品について書きたいということもあって、今回二度目の鑑賞となった次第です。

 久々に観終わっての感想は、確かに面白い。面白いけれど、今観れば、ご都合主義な点やツッコミ所も多く、また、国鉄の協力が得られなかったため、多くの部分を特撮でカバーしなければならなかったのですが、その特撮が見るからにオモチャといった具合に、問題点は多いです。ただ、それらは、私の中では、作品の面白さを邪魔するほどのものではありません。
 問題点は他にあります。今一つ何かが足りない・・・


新幹線大爆破 7

 「新幹線が時速80キロ以下に減速したら爆発する」というアイデアは凄いと思います。後にハリウッド映画『スピード』にパクられたのも頷けます。
 なぜ自分が「今一つ何かが足りない」と感じたのか、その「今一つ」の部分とは何かを自分なりに考えてみるに、それは、「新幹線の爆破を止めること」それ自体に関わる話が乏しい点だと思います。新幹線の外の話に尺を取りすぎているのです。
 爆破ターゲットが走行中の新幹線ということは、爆弾が客室に無ければ、新幹線内部の人間にはもう事件解決のために活躍する場はありません。単なるパニックシーンの盛り上げ要員です。国鉄司令部や警察等、新幹線の外にいる人間を活躍させるしか無いのですが、その外の人間でさえ、爆破を回避するためには、爆弾の外し方を犯人に教えてもらうしか無いと言うのですから、こうなると、犯人側がいかにして金を受け取るか、警察がいかにして犯人を逮捕するか、という方向にしか話を展開させられません。そして、実際、本作も、尺の多くがそちらの方に費やされています。

新幹線大爆破 2 でも、これでは、別に「新幹線大爆破」である必要ありませんよね? 大誘拐でもいいじゃないですか。せっかくの凄いアイデアなのに、結局は普通の犯罪ドラマと同じようにしか話を展開させられていないのです。
 「他の新幹線が故障して109号の進路上に止まっている」というアクシデントを挿入するなどして、精一杯新幹線に絡んだスリルを付け足してはいます。が、爆破回避に至るまでの間、新幹線に関わるそれ以外の見せ場は、新幹線の台車を写真撮影しようとするところと、救援車を並走させて走行中の新幹線から新幹線にボンベを受け渡すシーンぐらいのものです。
 結局は、新幹線の爆破阻止という面では、溶接機で床に穴を開け、爆弾に繋がったコードをニッパーで切るだけという、見栄えのしないアッサリとした決着の付け方で終わってしまいます。


新幹線大爆破 5 ところが、(以下はあくまで私の推察、いや勘繰りですが)怪我の功名と言うべきか、上述の展開が、この作品を「新幹線大爆破を阻止する物語」に終わらせず、図らずも「哀しみを背負った男たちの物語」という一段高いレベルにまで引き上げたんじゃないかと思います。
 この作品、犯人側のバックストーリーを挿入して、犯人達の境遇や犯行に至るまでの経過、心情などを説明しているのですが、そういう話を挿入したのも、新幹線大爆破を阻止するための直接的な物語の部分が希薄で、それだけでは持たないとの判断から、枯れ木も山の賑わいとばかりに入れたのではないか?と私は勘ぐっています。でも、それが枯れ木ではなかったのです。

新幹線大爆破 8 会社が潰れ、妻子にも逃げられた男・沖田。何かに失望して学生運動から脱落した古賀。そして、売血で生きながらえていたところを沖田に拾われ恩義を感じている若者・浩。奇妙な連帯感で結ばれた三人の負け犬が互いに支え合って生きています。そこに漂う哀愁が、負け犬であるはずの彼らを妙にカッコよく見せています。犯行の動機は金か? 憂さ晴らしか? 恐らくそれら全てを含んだ勝利を渇望する心みたいなものでしょう。何か巨大なものを相手に勝利してみたい、という心が、絶望の反動のように、静かながらも、沸々と、彼らの中に沸き出しているのが感じられます。ハリウッド映画では、往々にして、犯人が単純な悪党かサイコパスだったりするのですが、この作品では犯人側にも、それなりの深い人格を与えています(故に、犯罪映画にも関わらず、この作品には悪党が一人も登場しません)。
 それがあるために、この作品がただのパニック・エンターテイメントで終わらずに済んだように思います。

 ただし、より評価が高いという海外では、これらの部分がごっそりカットされ、単純でハリウッド的なパニック・エンターテイメントとして上映されたようです。日本でも、上述の部分は不要だという声は少なからずあります。

新幹線大爆破 4


新幹線大爆破 6 「新幹線が時速80キロに減速したら爆発する」というアイデアも素晴らしいものですが、爆破回避した後、警察が、犯人をおびき出すために行う工作も秀逸なアイデアです。更に、ラストで、犯人・沖田の顔を知らない警察が、空港の客の中から沖田を見つけ出すためにあることをするのですが、そのアイデアも、同時に悲しみを誘うような飛び切り上等なものだと私は思います。この作品、新幹線大爆破を回避するまでより、回避した後の方がよく出来てます。

 忘れてならないのが音楽。作・編曲:青山八郎。一部には、メロドラマのBGMみたいだと揶揄する声もありますが、スキャットから始まるこの美しい音楽は、犯人達の哀しみを表現する上で大きな効果を上げています。私は名曲だと思ってます。ちなみに、スキャットの主は、『アルプスの少女ハイジ』の主題歌でもお馴染みの伊集加代子さんだそうです。


 尚、今日のエントリーを書くにあたって、一応、YouTubeで予告編も見てみました。予告編では多岐川裕美や志穂美悦子の名前がデカデカと掲げられていますが、ほとんど詐欺です!! 観た方なら分かりますよね? でも、この作品、本当に豪華キャストです。しかも随分贅沢な使い方をしています。多岐川さん、志穂美さんも、その例です。誰がどこに出ているか、その辺を探しながら観るのも楽しいですよ。 

『新幹線大爆破』予告編



『新幹線大爆破』(1975年)
監督:佐藤純弥
脚本:小野竜之助・佐藤純弥
原案:加藤阿礼
音楽:青山八郎
撮影:飯村雅彦
編集:田中修
製作・配給:東映

出演:高倉健千葉真一宇津井健山本圭郷鍈治、織田あきら、竜雷太宇津宮雅代、藤田弓子、多岐川裕美、志穂美悦子、渡辺文雄、福田豊土、藤浩子、松平純子、久富惟晴、青木義朗、千葉治郎、原田清人、浜田晃、中井啓輔、山本清、矢野宣、近藤宏、田中浩、中田博久、林ゆたか、横山あきお、浅若芳太郎、植田峻、松野健一、田島義文、田坂都、十勝花子、片山由美子、風見章子、佐伯赫哉、岩城滉一、小林稔侍、片岡五郎、滝沢双、佐藤和男、岡本八郎、黒部進、相川圭子、山下則夫、山本緑、志村喬、山内明、永井智雄、鈴木瑞穂、北大路欣也、川地民夫、田中邦衛、丹波哲郎、他

YouTubeでも有料配信されてるのを発見!!YouTube『新幹線大爆破』

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めがね(2007年)

 この手の地味な映画は苦手で、普段ならあんまり観ないのだけれど、テレビでたまたま見始めたら途中で止められなくなって結局最後まで観ちゃいました。本作と同じ荻上直子監督による『かもめ食堂』を観た時もそうでした。
 事件らしい事件は起こらず、登場人物達の姿を眺めているだけなのに、なぜか引き込まれてしまうものがあります。

めがね あるのは海と「かき氷屋」だけ。人も、メルシー体操をしにきたり、さくらさんのかき氷を食べにくる近所の人だけ。波とマンドリンの音しか聞こえない静かでのんびりした世界。これで106分の映画を作ったら絶対退屈なはずなんですけどね。それを感じなかったのは、そこに、疲れた人々にとってのユートピアが描かれているからかも知れません。
 いや、実際のところ、この映画のような生活をするには日々の掃除洗濯その他諸々、やらなければならない面倒臭いことが一杯あるはずなんですけど、それらは一切描かれてません。だからこそ良いのです。そんなのは見たくないですもんね。我々がこの映画に求めているのはユートピアなんですから。

 少し前に「スローライフ」という言葉が流行りました。自分流にその言葉を訳すと「丁寧な生活」といったところですが、私もそういう生活には随分憧れたものです。この映画では、そのスローライフのお手本を見ることが出来る点も良かったです。
 毎朝の朝食シーンがいちいち「丁寧」です。民宿だから当たり前ですが、ちゃんとした朝御飯を「丁寧」に作って食卓に並べ、ゆっくりと食べる。食材の多くは毎日海で釣ってくる魚(※)と近所で採れる野菜、去年漬けた梅干も欠かさず並べます。こういう食事、堪りませんね。気分まで丁寧になっていくようです。この映画の魅力は、半分は毎日の朝食シーンにあるのではないでしょうか。(※食卓には鮭も並んでたので全部が全部近所から調達したものではないと思われます。近くには大きなスーパーもあるようですし)

 さくらさんが小豆を煮るシーンも良いです。鍋の前で、両手を腰に当てて微動だにせず、煮える小豆を見ている。煮上がったと見るや素早く火を止めて言います。

「大切なのは焦らないこと」

 それは私たちの生活にも言えることのような気がします。そして、それが、この作品における荻上直子監督のメッセージだったように思います。理由も無く、習い性のように焦って暮らしてないですか? 私はそうだったように思います。これからは何事も焦らずジックリ行きたいですね。

 とにかく良いですよ、この映画。普段、仕事やら何やらで慌ただしく生きている人には特にお薦めです。癒しの世界がここにあります。私も好きな時に来て「たそがれ」てみたい。そして、飽きたら帰るんです。次の年の春にはまた来たくなるでしょうけど。とはいえ、私にはこんな遠い島に行く経済的余裕などありませんから、しばらくは映画だけ見て「たそがれ」ていようと思います。

めがね(2007年)
監督・脚本:荻上直子
製作:めがね商会
音楽 金子隆博
主題歌:大貫妙子「めがね
撮影:谷峰登
編集:普嶋信一
配給:日活

出演:小林聡美もたいまさこ光石研市川実日子加瀬亮


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K-20 怪人二十面相・伝(2008年)

 やっぱり凡才なのかなあ、あの人は・・・?

K-20 怪人二十面相・伝1 4日に『金曜ロードSHOW!』で放映されていたので観ましたが、遠藤平吉がなぜ源治らに助けられたのかが全然説明されてなかったり、初めて登場する源治を、平吉は以前から知っている口ぶりなのにどういう関係か説明されてなかったりで、脚本の杜撰さに「何だ、これ!?」と思いながら観てました。

 誰が書いたんだ?と思って調べてみたら「佐藤嗣麻子」です! そう、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』で散々な脚本を書いていた佐藤嗣麻子です!! この作品では監督までやってます。ああ、やっぱりダメだこの人・・・。と思いつつ、それにしてもおかし過ぎるので再度調べてみたら、上映時間が大幅にカットされているではありませんか。オリジナルは137分、テレビで放映されたのは114分。これはCM込みの時間だから、それを抜いたら100分ぐらい。30分はカットされています。多分冒頭に書いた疑問も、カットされた30分に描かれていたのでしょう。失礼しました、佐藤嗣麻子監督。

 それにしても、こんな妙なことになってしまうのに、30分もカットして放送するテレビ局の神経を疑います。もし調べなかったら、私は「佐藤嗣麻子はダメ監督」と完全に決め付けていたところで、監督にとっても非情に迷惑な話です。テレビ局にはご一考願いたいものです。
 後から知ったのですが、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』も大幅にカットされて放映されていたのだそうです。過去のエントリーで散々貶しましたが、ノーカットで観れば、また違った感想が出てきたかも知れないと思うと、山崎貴監督や佐藤嗣麻子にゴメンナサイです。

 と云うわけで、こんな状況ではまともな感想は書けません。アクションシーンやCGで作った帝都の風景など、良い所は結構ありましたよってことぐらいしか。子供向け作品という雰囲気ではありますが、後半は結構楽しめました。
 ただ、泥棒長屋の住人達や孤児等のセリフが、あんまり考えてないと言うか凡庸だなという印象は否めません。ところどころ挿入される「笑いどころ」も雰囲気を明るくはしているものの、どこかで見たような感じです。まあ、こういう点も、子供向け作品だと考えれば突っ込むのは野暮ですかね?

(以下ネタバレ注意)

 この作品の一番大きな弱点だと思う点は、子供の頃『少年探偵団』シリーズを読んだことがある人なら、「怪人二十面相の正体が明智小五郎だった」というオチは、みんな考えたことがあるんじゃなかろうか?ってことです。原作がそうなっていたのかも知れませんが、陳腐な発想そのままで作ってしまわず、ひと工夫欲しかったところです。多分、観客の多くが(子供のお客さんも含めて)途中から気づいてたと思いますよ?

K-20 怪人二十面相・伝2
K-20 怪人二十面相・伝(2008年)
監督・脚本:佐藤嗣麻子
製作:阿部秀司、奥田誠治
音楽:佐藤直紀
主題歌:オアシス『ショック・オブ・ザ・ライトニング』
撮影:柴崎幸三
編集:宮島竜治
配給:東宝

出演:金城武松たか子仲村トオル國村隼高島礼子本郷奏多鹿賀丈史、他


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パッチギ! (2005年)

パッチギ!2「あいつらならこんぐらいやるだろうな」と思っちゃいました。
 朝鮮高級学校の番長でもあるアンソン(高岡蒼佑)が、修学旅行で京都に来ていた日本人高校生に妹・キョンジャ(沢尻エリカ)が侮辱されたことから、朝高生らの大軍を率いて彼らの一行を襲撃、バスを横転させるという冒頭シーンのことです。

パッチギ!1 「あいつらならやるだろうな」と思ったのも、中学時代の私が朝高生に抱いていたイメージそのままだったからです。ツッパリ系のクラスメートから、朝校と喧嘩すると、(本当にやったら死ぬだろうけど)鼻の穴に割り箸を突っ込まれ、その割り箸を蹴り上げられるんだといった類の話を散々聞かされていたり、朝鮮学校との交流会のような催しがあった時、やってきた朝鮮学校の生徒会長が、上は長ラン、下は(私達は“横須賀”と呼んでいましたが)いわゆるボンタン、髪は茶色で剃り込みバッチリといった出で立ちで、私の学校のコワ~イ3年生より遥かに怖く、「生徒会長があれか・・・?」「やっぱり朝高って・・・」とショクを受けたりで、私の頭にはすっかり“朝高=怖いヤツら”というイメージが刷り込まれてしまいました。それが未だ抜けきれてなかったようで、冒頭のあのシーンを見てもすんなり飲み込めたのでした。

 大人になった今なら、生徒会長からしてそういう格好をしなければならなかったのには、それなりの理由があったんだろうなと分かるような気もします。この映画の中のアンソンら朝高生達も多分同じです。

パッチギ!5 この物語は、1968年の京都を舞台に、主人公である康介が在日朝鮮人のキョンジャに恋をし、民族の壁を乗り越えてアプローチしていくという青春恋愛ドラマで、言わば日本版『ウエストサイド物語』(もっと言えば『ロミオとジュリエット』)と言ったところでしょうか。『ウエストサイド物語』同様、キョンジャの兄・アンソンらも、日本人の不良グループである東高空手部と激しく対立しており、町で出会うたびに血みどろの喧嘩が繰り返されています。
 そんな中で、康介は何とかキョンジャの気を惹きたくて、坂崎酒店の若旦那(オダギリジョー:アルフィーの坂崎幸之助がモデルだそうです)にギターを習い、『イムジン河』を練習します。そして、北朝鮮に帰るというアンソンのための送別会に顔を出し、『イムジン河』を披露。在日朝鮮人のコミュニティーにも受け入れられていきます。

パッチギ!6 ある日、アンソン・グループが康介を交えてクラブで飲んでいたところ、その店が、アンソンらと対立する東高空手部主将・大西(ケンコバ)の父が経営する店だと知り、一暴れして逃げますが、途中、アンソンの子分であるチェドキが実に良いセリフを言うのです。

「ホンマは俺らかて喧嘩するの怖いねん。次の角曲がったら100人くらい待っとって袋にされてまう夢、何回も見たことあんねん」

 これが彼らの本音なのでしょう。喧嘩は怖いけど、日本人に舐められたら虐められるばかりだ。だから、目いっぱい虚勢を張っているんだということがよく分かるセリフです。上に書いた朝高の生徒会長も多分同じ心理だったと思います。私はここで初めて彼らに親近感を覚えました。

 でも、そんなチェドキも、東高空手部と大阪ホープ会との連合軍にリンチされた挙句、事故で死んでしまいます。
 葬儀のため、チェドキの遺体を収めるための棺桶を家に入れようとするのですが、入口があまりに小さく、ハンマーで壊さなければ入りません。悲しいシーンです。家というより小屋、在日の貧しさを、言葉によることなくこれほど端的に表現出来る井筒監督に脱帽です。
パッチギ!8 悲しいシーンがさらに続きます。康介が、日本人だという理由で、チェドキの叔父(笹野高史)によって葬儀の場から追い払われるのです。在日の人々と仲良くなれたと思っていた康介ですが、帰り道、橋の欄干にギターを叩きつけて泣きます。

 日本人と在日朝鮮人は一つになれないのか? この映画はひたすらそれを問いかけます。アンソンらはチェドキの復讐を決意し、鴨川(?)で、東高空手部・大阪ホープ会連合軍と乱闘を始めるのでした。


イムジン河』(作詞:朴世永 作曲:高宗漢 日本語詞:松山猛

イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由にむらがり 飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る

北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ 想いを伝えておくれ
ふるさとを いつまでも忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る



 康介は、ラジオ局のディレクター(大友康平)より予てから誘われていたラジオ番組に出演し、『イムジン河』を歌います。
 二つのグループによる激しい乱闘シーンのバックに流れる美しい歌。鴨川とイムジン河が妙にダブります。歌詞がまるで二つに分かれて対立する日本人と在日のようでもあります。

パッチギ!14 病院では桃子(楊原京子)が正に出産しようとしています。生まれようとしているのは、朝鮮人であるアンソンと日本人である桃子の子です。キョンジャは、康介の歌声が流れるラジオを葬儀の場に持っていきみんなに聞かせます。日本人を非難する言葉を浴びせて追い出した康介が、それでも『イムジン河』を歌っているのを聴いて、彼らはどう思ったでしょう? 観ていて自然と涙が溢れます。本当に“1リットルの涙”が溢れそうです。

パッチギ!12「私には夢がある。それはいつの日か、ジョージアの赤土の丘の上でかつての奴隷の息子とかつての主人の息子が兄弟として同じテーブルに腰を降ろすことだ。」映画の中でも、オダギリジョーがキング牧師の言葉を伝えてました。
 争って誰が得するねん? 一つになるってええやん、アンソンと桃子のように、康介とキョンジャのように。それがこの映画のメッセージでしょう。
 映画のテーマとしては陳腐かも知れません。でも、この映画の舞台である1968年から何十年経った今でさえ、ネットを見れば、未だに一部の日本人が差別的な言葉を平然と垂れ流している現実もあります。そういう連中には何を言っても通じないでしょうが、少なくとも自分だけは連中の尻馬に乗らないようしたいものです。


 原案は、『イムジン河』の日本語詞を書いた松山猛の著書『少年Mのイムジン河』。『イムジン河』という歌にまつわるエッセーのようなものだそうですが、井筒和幸監督と脚本・羽原大介の二人が、それを笑えて泣ける感動作に膨らませました。一つの名曲が一つの名画を生み出したと言いますか、この作品において、『イムジン河』はもう一人の主役でもありました。音楽監督を務められた加藤和彦氏が、ああいう亡くなり方をされたのは残念です。

パッチギ!3 毛沢東かぶれの高校教師を演じた光石研。フリーセックスを求めてスウェーデンに旅立ち、ヒッピーになって帰ってきた坂崎酒店若旦那のオダギリジョー。二人とも良い味出してました。正に体を張って“放送禁止歌”である『イムジン河』をオンエアしたラジオ局のディレクター役・大友康平。放送を阻止しにきた上司(松澤一之)に向かって啖呵を切るシーンはカッコよかった。と言うか「美味しいとこ持っていきやがって」という感じでしょうか(同時に思い切り笑わせてくれてるのですが)。忘れてならないのが、ガンジャ(真木よう子)の友達役・江口のりこ。スケバンの演技が堂に入ってて、ホントにほんの少ししか出てないのだけれど、私の中に鮮烈な印象を残しました。その他、この作品に出てくる俳優達は一人残らずみんな良かった。そして『パッチギ!』も、間違いなく映画史に残る名作の一つです。

パッチギ!(2005年)
監督:井筒和幸
脚本:井筒和幸、羽原大介
製作総指揮:李鳳宇
音楽:加藤和彦
撮影:山本英夫
編集:冨田伸子
製作:シネカノン、ハピネット・ピクチャーズ、衛星劇場、メモリーテック、S・D・P(スターダストプロモーション)
配給:シネカノン

出演:塩谷瞬沢尻エリカ高岡蒼佑、真木よう子、波岡一喜、尾上寛之、楊原京子、小出恵介、ケンドーコバヤシ、江口のりこ、ちすん、オダギリジョー、光石研、余貴美子、大友康平、 前田吟、他

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Author:Blik
作品や監督、俳優等について深い知識は持ち合わせておりません。ハッキリ言えばニワカですので私の評はアテにしないでください。また今日も頓珍漢なこと書いてやがんなあ、ぐらいの感じで読むのが丁度良いかと思います。

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